学生の本分を忘れてはなりませんね。
とは言っても1限の英語教師に本気でキレかけまして(苦笑)
いやイライラしてはいけませんね。
でもまぁ、雨でしたから、ということで。
3限は、うん、出席とってねぇからプリントだけ取ってきた。
4限は、うん、好きな本を読んでた。90分で130ページ読んでたし。有意義だ。
5限だ。
相変わらずサブカルチャーというのが好きです。
高校時代、"Quick Japan"を読みあさっていたのが懐かしいです。
今は殆ど読んでないけど、たまに森山大道と坪内祐三の連載は読む。
そうそう。
今日はアラーキー(荒木経惟)写真集「センチメンタルな旅 冬の旅」を読み解く授業でした。
「私写真」と定義される彼の写真の生々しさに(特にその生々しさが現れるのは、やはり裸だということに気付かされるけど、裸≒エログロに対してはまだまだ免疫がないと思います。余談ですが、裸へとならずに裸を表現している、と勝手にこちら側が一方的に思っているインリン・オブ・ジョイトイの出現云々について書き始めると、止まらなくなるので一切省略)僕はすっごい心躍らせるんです。その生々しさというのが一瞬を司る彼の能力=「機会」であると教師は喋っていましたが全くその通りだと思います。勿論、技術も必要ですが、「機会」をもぎ取るというのは天賦の才能でしょう。
写真家としての出発を愛にし、たまたま私小説からはじまったにすぎないのです。もっとも私の場合ずーっと私小説になると思います。私小説こそもっと写真に近いと思っているからです。
「センチメンタルな旅 冬の旅」での序文が表しているでしょう、この熱さを。
でもこの写真集は本当に悲しい。
何故なら、最後に荒木経惟が愛した妻、陽子が亡くなるから。
なんで、こんな冗長な文章を独りよがりで書いているかと言うと、「死」というのを意識した本・音楽を最近よく読んだり聴いたりしてしまっているからなのです。まぁリリー・フランキー『東京タワー』が最初の契機でした。
リリー・フランキーも「東京タワー」についてこう語っている。
全然苦しいし、書いてて楽しくないし。だから書き終わった時に、もうこういう気持ちで文章を書くものはやりたくない。かといって何を書くのかっていうのは、自分の中にはまだないんですけども。こういう、ほんとに自分の中の個の精神的なものをこの文章に投影して、書きながら泣いたりとかはもう、単純につらいと思いました。どうなるか、わからないけど、この先。
新婚旅行を収めた「センチメンタルな旅」 妻が病に倒れ、亡くなり、自分と飼い猫だけになってしまう「冬の旅」
アラーキー撮影の写真集なのに、アラーキー"自身"が被写体となっている。
美しいままであってほしい、でもそんなはずはない。
妻の入院中の姿は1ページも写されていない。例外は死に化粧を施した妻の写真。
生/死という究極の二元論に翻弄され、悲しむ彼の孤独。
俺は本当いうと考えるの嫌で、いつもはパッと勘で決めちゃうんだよ。だけど初めて出すかどうか考える時間を与えられたわけ。さんざん悩んだ末に、出すことにした、写真家として。これは、写真なのです。
本当にやばかったなーマジで泣きそうだったもの。
ってことで終わり。
自己満でした。
なげぇよ。